起源:江戸期の人足寄場から始まる系譜
巣鴨プリズンの歴史は、実は巣鴨に始まったわけではない。
その源流は 1790年(寛政2年)石川島の人足寄場に遡る。
明治期に「佃島徒場」「石川島監獄署」と改称され、1895年に巣鴨へ移転したことで、ようやく巣鴨の地に刑務施設が誕生した。
1897年に「巣鴨監獄」、1922年に「巣鴨刑務所」と改称され、東京の主要な監獄として機能した。



関東大震災と移転:府中刑務所への引き継ぎ
1923年の関東大震災で巣鴨刑務所は大きな被害を受ける。
その結果、1935年に府中へ移転し、府中刑務所となった。
跡地には新たな庁舎が建設され、1937年に市谷刑務所が移転してきて「東京拘置所」と改称された。
この「東京拘置所」が、のちにGHQに接収され「巣鴨プリズン」と呼ばれる施設となる。
戦前の巣鴨拘置所:思想犯の収容とゾルゲ事件
戦前の巣鴨拘置所には、
- 共産主義者
- 反戦運動に関わった宗教家
- ゾルゲ事件の関係者
など、いわゆる「思想犯」が多く収容されていた。
1944年には、リヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実の死刑がここで執行されている。
GHQ接収:スガモプリズンの誕生(1945)
1945年、日本の敗戦とともに東京拘置所はGHQに接収され、“Sugamo Prison(巣鴨プリズン)” として再出発する。
ここは、
- A級戦犯
- B・C級戦犯
- 戦争犯罪容疑者
を収容する戦後日本最大の戦犯収容所となった。
収容者の生活:階級差と飢餓、そして対立
当初、収容者はまだ「有罪」ではなかったため、軍の階級や社会的地位に応じて食事や掃除の扱いが変わるという奇妙な待遇が存在した。
しかし1946年初頭、ハイパーインフレと食糧難により状況は一変する。
- 朝食はすいとんか黒パン
- 昼夜は豆入りの雑炊
- たんぱく源は悪臭を放つサメの煮付け
という極端な飢餓状態に陥った。
この劣悪な環境は、
- A級とBC級の混在
- 上官と部下の確執
を激化させ、収容者同士の対立を生んだ。
1946年12月、ようやくA級とBC級の分離収容が実施される。
GHQによる監視:盗聴と情報戦
アメリカ軍は情報戦の一環として監房に盗聴装置を密かに設置し、戦犯たちの会話を記録していた。
この事実は後年になって明らかになった。
重労働と「更生」:収容者の2年間
1947年からは既決囚の労働が本格化する。
A級戦犯・高齢者・病人を除き、全員が道路整備・農園作業・兵舎建設などの重労働に従事した。
長期拘禁と裁判疲れで衰弱した者も多く、「いっそ死んだ方がましだ」という声すらあったという。
しかし、労働を通じてGHQの信頼を得た者は、
- 減刑
- 書籍閲覧の許可
- ラジオ・映画鑑賞
などの待遇改善を受けた。
1948年12月23日:A級戦犯7名の死刑執行
極東国際軍事裁判で死刑判決を受けた東條英機ら7名の絞首刑が、1948年12月23日に執行された。
「公式な文書による確実な証拠」はないが、明仁上皇の誕生日である12月23日(15歳の誕生日)が選ばれたという説がある。新しい天皇となる人物に戦争責任の重さを意識させるための心理的なメッセージであった可能性があると分析されている。
1948年の東京裁判における判決から死刑執行までの流れは以下の通りだ。
1. 判決の言い渡し(1948年11月4日〜12日)
1948年11月4日から判決の朗読が開始された。最終日の1948年11月12日、東條英機ら7名に対し「絞首刑」の判決が言い渡された。
2. マッカーサーによる審査(1948年11月22日〜24日)
連合国軍最高司令官マッカーサーは判決内容を再審査した。1948年11月24日、マッカーサーは判決を正式に承認し、刑の執行を命じた。
3. アメリカ最高裁判所への特別上訴(1948年11月下旬〜12月20日)
被告側弁護団は「裁判に管轄権がない」として、ワシントンのアメリカ最高裁判所へ特別上訴を行った。この間、死刑執行は一時保留となった。
1948年12月20日、米最高裁が上訴を却下したことで、すべての法的手続きが完了した。
4. 執行の指令と準備(1948年12月21日〜22日)
却下を受け、マッカーサーは直ちに第8軍司令官へ刑の執行を指令した。これに伴い、巣鴨プリズン内で執行の最終準備が進められた。
5. 死刑執行(1948年12月23日 未明)
1948年12月23日の午前0時1分から順次、7名の死刑が執行された。
- 0:01〜: 土肥原賢二、東條英機、松井石根、武藤章
- 0:20〜: 板垣征四郎、広田弘毅、木村兵太郎
米最高裁の判断が下された12月20日からわずか3日後の執行であり、結果として当時の皇太子(明仁上皇)の15歳の誕生日と重なった。
1948年12月23日の処刑後、遺体は直ちに横浜市の久保山火葬場へ運ばれ、極秘裏に火葬された。
米軍の報告書(2021年に機密解除)によると、遺骨は米軍機に積み込まれ、横浜の東約30マイル(約48キロ)の太平洋上空から広範囲にまかれた。
しかし、火葬の際、米軍が持ち去りきれなかった遺灰が火葬場の「残灰穴」に捨てられた。
これを三文字正平弁護士らが夜陰に乗じて回収したとされ、現在、静岡県熱海市の興亜観音などには「殉国七士の碑」として遺骨が祀られている。
戦犯の大量移送と最後の死刑(1950)
1950年には、
- オランダ・インド関係の戦犯693名が帰国し684名が巣鴨へ移送
- 収容者数は1862名に達し最多を記録
同年4月7日、石垣島事件の7名が処刑され、これが巣鴨での最後の死刑となった。
日本への移管と閉鎖(1952–1958)
1952年、サンフランシスコ講和条約の発効により、巣鴨プリズンは日本政府に移管され「巣鴨刑務所」と改称された。
1958年、最後の戦犯18名が釈放され、巣鴨プリズンは完全に閉鎖された。
跡地の再開発:サンシャインシティへ
1978年、跡地は大規模再開発によりサンシャイン60を中心とするサンシャインシティとして生まれ変わった。現在、当時の面影はほとんど残っていないが、
- 東池袋中央公園の「平和祈念碑」
- イケ・サンパークに移設された排水口跡
が、わずかに歴史を伝えている。
碑文には「永久平和を願って」とだけ刻まれ、裏面にのみ戦犯処刑地であった事実が記されている。
かつて処刑場の存在した位置にこの碑は存在している。



第二次世界大戦後、東京市ヶ谷において極東国際軍事裁判所が課した刑及び他の連合国軍事裁判法廷が課した一連の刑が、この地において執行された。
戦争による悲劇を再びくりかえさないため、この地を前述の遺跡とし、この碑を建立する。
昭和五十三年六月


戦後日本に残した影響
巣鴨プリズンは、
- 戦争責任の追及
- 戦後処理の象徴
- 国際社会への復帰過程
を体現した場所であった。
岸信介のように収容されながら起訴されず、のちに首相となった人物もおり、その存在は戦後政治の転換点としても重要である。
サンシャイン60
現在、巣鴨プリズン跡地には高層ビルが立ち並び、若者の街・池袋の象徴として賑わいを見せている。
しかし、東池袋中央公園の片隅に立つ碑の前に立つと、かつてここが戦争犯罪者の収容と処刑の中心地であったという事実が静かに迫ってくる。


