デモ行進の「許可」と「税金」
数千人の機動隊員、立ち並ぶ大型の装甲車、そして上空を舞うヘリコプター。8月15日の九段下は、さながら厳戒態勢の戦場のようだ。この『1日限りの要塞』を築くために、一体どれほどの税金が投入されているのか考えたことはあるだろうか。
東京の路上で繰り返されるデモ行進。特に8月15日の靖国神社周辺のような、感情と主張が激しくぶつかり合う現場を目の当たりにすると、ある一つの疑問が浮かぶ。
「なぜ、これほど膨大なリソース(税金)を投じてまで、混乱が目に見えている申請を受け付けなければならないのか。」
そこには、日本の法制度が抱える「表現の自由」への徹底したこだわりと、警察組織が陥っている「組織防衛」の論理が複雑に絡み合っている。

憲法21条が突きつける「拒否権のない申請書」
日本の法制度上、デモの申請に対して警察は「原則として拒否できない」。形式上は「道路使用許可」という形をとるが、その実態は「届出制」に近い。
憲法21条が保障する「表現の自由」は民主主義の根幹である。
デモ規制に関する最高裁判決(東京都公安条例事件・昭和35年7月20日)は、デモ行進を「表現の自由」に含まれると認めつつ、公共の安寧を守るための“必要最小限度の事前規制”は許されると判断した。警察が許可を拒否できるのは「公共の安寧を保持する上で直接危険が明らかに認められる場合」に限られ、文面上は許可制でも、実質は“届出制”と変わらないとした。この判例により、警察はデモの内容を理由に拒否できず、結果として“拒否できないのに責任だけ負う”構造が固定化された。たとえ主張が極端であっても、あるいは日程や場所が不適切であっても、警察は「内容」を理由に門前払いをすることは許されない。
日本国憲法(昭和二十一年憲法)
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
なぜ警察は「物量作戦」という非効率に逃げるのか
現地では、デモ隊の横を数百メートルにわたって警察官の大行列が並走し、歩道には私服警察官がぎっしりと配置されている。 これは、右翼・左翼・カウンター勢力、一般参拝客、観光客が同時に存在する“最悪の条件”を、物理的に分離するための「人間の壁」である。
機動隊の複数中隊、特科車両隊、交通規制要員、情報担当の私服警察官が一帯を埋め尽くし、九段下から靖国通りにかけては都市封鎖に近い密度の警備が敷かれる。
公式な人数は公表されないが、現地の密度から推定すると、総動員は2000〜3000人規模に達する可能性が高い。
数億円の『保険料』を払い続ける納税者のジレンマ
警察官1人あたりの人件費(給与・諸手当・超過勤務)を1日あたり約4〜5万円と仮定すると、
- 2000人動員 → 6000万〜1億円
- 3000人動員 → 1.2億円〜1.5億円
さらに、
- 機動隊車両の燃料・維持費
- 特科車両の運用
- 交通規制のための資材
- 事前準備・情報収集のコスト
これらを加えると、総額は「数億円」規模に達する。
もちろん、これは「誰かが払っている」。 言うまでもなく、すべて税金である。
数十人が合法的に声を上げる権利を守るために、社会全体が数億円を負担する構造になっており、デモ参加者100人で警備費3億円であれば、デモ参加者一人あたり、300万円の警備費用を支払っている計算になる。
警察が恐れているのは「費用」ではない
警察が最も恐れているのは、コストの増大ではない。
「警備を削った結果として、怪我人が出ること」だ。
もし人員を減らし、反対派との衝突で流血の事態を招けば、
- 「不作為」として国家賠償請求
- 指揮官の処分・辞任
- 組織としての信頼失墜
これらのリスクが一気に現実化する。
警察官個人の視点に立てば、警備を削って事故が起きれば「業務上過失致死傷罪」という刑事罰が待っている。つまり、彼らは公費の節約よりも、自身のキャリアと法的責任を守るために「過剰警備」を選択せざるを得ない構造に置かれているのだ。
だからこそ警察は「最悪の事態を防ぐための、過剰なほど高い保険料」 として膨大なリソースを投入し続ける道を選ばざるを得ない。
民主主義のコストをどう考えるか
「一部の集団のパフォーマンスのために、なぜ貴重な税金が浪費されなければならないのか」という不満は、納税者として極めて自然だ。
一方で、もし「税金がかかるからデモを禁止する」という理屈を一度でも認めてしまえば、 時の権力にとって不都合な声は、すべて「予算不足」を理由に封殺できてしまう。
- 表現の自由を死守するための「必要経費」なのか。
- それとも、公共の福祉を損なう「資源の浪費」なのか。
このバランスをどこに置くべきか、明確な答えはまだない。
ルールを厳格に運用すればするほど、コストが膨れ上がる。8月15日の九段下で見せつけられるのは、その最も不条理で、最もアナログな解決策だ。我々はこの「高額な保険料」を、これからも納得して払い続けるべきなのだろうか。

